スポーツ新聞の見出しなどで「大勝利」とか「勝利に湧く」という文字を見ることがあります。しかしそれが仏教の中で使われてきた言葉であることはあまり知られていないようです。
仏教語としては「勝利」は「勝(すぐ)れた利益(りやく)」を意味しています。
勝利の対義語
勝利の反対は何?と問われると、ほとんどの人が「敗北」と答えるのではないでしょうか。
しかし対義語はそれだけではありません。
目先の小さな利益にとらわれるなら「小利」です。
自分だけが得をするなら「私利」になります。
また、他を犠牲にするようなものは「暴利」と言った方がいいでしょう。
いつの頃からかは分からないが、勝利といえば勝負の文脈でのみ用いられるようになりました。
特に現代は、よろずのことに勝ち負けが取り沙汰される風潮にあります。
そんな中で、「利益」という言葉も、損か得かというものさしでしか使われなくなってしまっています。
そのために、利益の大小については考えられても、勝れた利益などというものは何のことだか、わけが分からなくなってしまっているのではないでしょうか。
勝つか負けるか!?
他国に対し、他社に対し、他人に対し、いつも勝つか負けるかばかり。
いい意味でのライバルであれば高め合うことにもつながるでしょうが、敵と見なして争うあいだは自分自身も落ち着くことなんてできません。
また、本来勝ち負けの対象ではない「病気」に対しても「勝った」とか「負けた」という言われ方がされることもあります。
最近では、老いと戦うことを奨励するアンチエイジングなどという言葉まで出てきました。
はたして病気になってしまうと「敗北」なのでしょうか。
歳をとって、若いころできたことができなくなるのはダメなことなのでしょうか。
他人と比較したり、若いころの自分と比べる限り、本当の満足を得ることはできないでしょう。
比べる必要のない世界との出会いによって心の底から満足できること。それを仏教は「勝利」と教えてきたのでしょう。
勝利が戦いに勝つことだけを意味するようになったのは、何が本当の利益なのかを見失った結果なのかもしれません。
人間の都合だけが優先されたり、いのちまでもが損得のものさしで計られたりする今日、本当の利益とは何なのか。
改めて問う必要があるのではないでしょうか。