暮らしの中に仏さまを
それは、特別な日だけでなく、何気ない日常の一瞬一瞬に、
手を合わせる心、思いやる気持ち、そして生かされていることへの感謝を見出すこと。
福岡市中央区に佇む、浄土宗 照福山顕光院 圓應寺(円応寺)は、
慶長七年(一六〇二)四月、黒田官兵衛如水公の正室にして、篤き阿弥陀信仰者であった
照福院殿(光姫)さまにより開かれました。
福岡城を治める長男・長政公の居城と、次男・熊之助が眠る玄界灘を望む福岡城大手門前の地に建立され、官兵衛公と深い縁を結ばれた天蓮社真誉見道大和尚を開山に迎え、以来、黒田家の菩提寺として、人々の祈りとともに時を重ねてまいりました。
本サイト「圓應寺歳時心得記」暮らしの中に仏さまをでは、一か月毎の年中行事や法要・催事のご案内をはじめ、
境内に移ろう四季の景色、御朱印などの授与頒布物、お墓や納骨堂のご案内、檀信徒の皆さまとのお便り、さらに修行体験やお寺でのお稽古、しきたりや作法など
仏さまの教えを日々の暮らしの中で感じていただける情報を、副住職・三木英信が心を込めてお届けしております。
どうぞごゆっくりとご覧いただき、日常の中に、そっと仏さまを迎え入れるひとときをお過ごしください。そして折にふれ、ご参拝・ご参加いただけましたなら、これほど嬉しいことはございません。
本年は圓應寺開基 光姫さま の400回忌に当たります
2026年(令和8年)は、圓應寺開基・光姫さまの四百回忌にあたる、たいへん尊い節目の年です。
光姫さまは、戦国の名軍師・黒田官兵衛如水公に生涯ただ一人の妻として深く愛され、陰に陽にその歩みを支え続けた女性でした。
志方城主・櫛橋伊定の娘として生まれ、若くして官兵衛公の正室となられた光姫さまは、嫡男・長政公をはじめ黒田家の礎を築き、関ヶ原後には福岡の地に根を下ろす歴史の節目を共に迎えられました。
1601年、福岡城築城の折、玄界灘を望む簀子の地に圓應寺を建立されたのも、光姫さまの深い祈りのあらわれです。
官兵衛公没後は出家し、照福院殿と号して念仏に励み、先祖・敵味方の別なく人々の冥福と福岡の安寧を祈り続けられました。
寛永4年(1627年)、75歳で静かに生涯を閉じられ、その御墓所はいまも圓應寺にあります。
また、今から13年前、江戸期の略伝資料の精査により、「光姫」のお名前の読みが「ミツ」であることが判明いたしました。
この新たな史実の発見は、光姫さまのお人柄と存在を、より身近に感じさせてくれる大切なご縁となっています。
四百回忌という大きな節目を迎える本年、圓應寺では光姫さまの御遺徳を偲び、感謝と祈りを捧げる盛大な法要ならびに記念行事を執り行うことを予定しております。
慈しみと信念をもって福岡を照らし続けた光(ミツ)姫さまの想いを、次の世代へと丁寧につないでまいります。



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サイト編集者 圓應寺 三木 英信 副住職について
プロフィール
佛教大学卒後、いわゆる底辺校と呼ばれた全日制私立高校の教諭となり、40%卒業率校で在職中受け持ったクラスを卒業率90%に引き上げる。
その後、私立大学職員となり学生課で学生相談員をしながら大学奨学金制度を作定。部活動では空手道部ヘッドコーチとしてクラブを学連一部リーグへと押し上げる。
高校の教育現場に戻り、通信制高校教諭として7割が不登校を経験してきた生徒たちがスクーリングで集う世界遺産の島、屋久島にて共に子どもたちと泣き笑う日々を過ごす。傍らNPO活動で不登校問題に取り組み、中学生対象のフリースクール開設や子育ての講演、相談員、また若者やその家族を支援してきた。
現在、福岡 藩祖・黒田如水(官兵衛)の妻光姫創建の黒田家の菩提寺、浄土宗 照福山 顕光院 圓應寺(円応寺/えんのうじ)副住職に至る。また、正剛館福岡本部 圓應寺 道場師範代 常任理事。全日本空手道連盟公認段 五段 文部科学省認定日本体育協会スポーツ指導員。NPO法人福博相伝の会相談役。
